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橋本努講義「経済思想」小レポート2005 no.2.

 

 

 経済思想 2回目レポート        5/17  17030054  石山 陽大

 共産主義と資本主義のいったいどちらが望ましいのか考えるきっかけになった。歴史的に見れば、ソ連が崩壊したことで、共産主義が成功している国というのがなくなり、世界では資本主義が台頭している。でも共産主義はいまだ人によっては理想であることもあり、もしかしたら資本主義より共産主義の方がよいかもしれないという期待感がある。なぜだろうか。  

 資本主義というのは、個人の才能を生かし、個人の幸せを追い求め市場があるものだ。それに対し、共産主義は、それに属する集団が集団の幸せのために働き、才能は否定され市場はない、という違いがある。授業の中でも出てきたのだが、20世紀に世界の中で、ソ連とアメリカを対比させた場合、芸術的には、ソ連の方が上であったように思える。なぜかは自分にはわからなかった。これはもしかしたら共産主義であっても才能は否定されないことではないのか、表面上は否定されていても本質ではそうでないため偉大な人たちが出てきたのかもしれない。またソ連自体が、共産主義を正確に実行していなかったとかであったら納得がいく。

 理想について思うことは、人間というものは必ず自分の目指すところの理想というものが必要だ。目標がない状態で、世界的な競争にさらされたらただ自己の防衛だけにはしり、混乱した世の中になると思う。いま私達は、資本主義の中にいるわけだがこれに対立する共産主義がなすことを理想のものと考えて見ることで、資本主義を対象化し、目標がわかるのではないか。目指すところがあれば、人はその理想を目指して働く。多少道が外れようとも、軌道修正がきくだろう。

 資本主義を目指すのは、或る程度裕福な上流階級の人であるだろうし、労働者階級は共産主義を目指すのは間違いないと思う。市場があることで、上流の人は利益をどんどん目指せ、労働者との格差はますます拡大する。労働者にとっては、資本主義である限り上流階級の所得に追いつくことはほとんどないであろう。お互いそう言う願望がある中でもし共産主義に制度が変わってしまったならば、それはつまり、労働者の理想が本当のものとなったということだ。上流階級の人は、今度は資本主義という世界を目指して国をすてて国外を出るかもしれない。共産主義を資本主義に変えるのはほとんど無理であろう。一度、国側について、人を指示する側についてしまったら、そのポストほどよいものはないから、独裁化し、資本主義に戻すことはない。それはつまり共産主義が滅びるのを待つしかないということだ。そして今度は資本主義になることが理想となる。

 資本主義と共産主義とは、もし自分が資本主義だったら、共産主義の精神を目指し、自分が共産主義だったら資本主義の精神を目指すようにお互いが利点があるがため理想となる。まったく対極に属するものがあるから、いまの自分の利点を見えるし、悪い所も分かる。両方のバランスをうまくとることが、制度がうまくいくコツであると思う。どんなに社会が進歩しようとも、使う人と使われる人がいるのは世の常だ。両方の満足度を高めるため、バランスをとるのが求められると感じた。

 

経済思想3回目 レポート      経済3年   17030054 石山 陽大

労働者について考える。いまの私達は資本主義社会に生きており、求められているのは少ない資本投入で大きな成果を得ることが出来ることだ。そんな中では、労働者は与えられた仕事をこなせるようで無ければならず、ノルマが達成できないと仕事をクビになってしまうはずである。だが現実には、一度正社員として会社に採用されてしまえば、仕事ができなくとも、クビになるというのはなかなかない。経営状態が悪化して誰かをリストラしなければならないといった切羽詰った状態でならクビになることもあるだろう。だがしかし能力が低いという状態ならば、部署を移動させ、またそもそも会社としても出来の悪い人は採用しないのではないか。

共産主義では、労働者は実質的平等と形式的平等であるという指針がある。能力に応じて働くところも変わるが、時間も給料も一緒である。共産主義では、能力がある人よりもない人の方が利益を得ることが出来る。なぜならば、給料というのはある人の仕事のできを表すものであるのに、本来ならば、自分の仕事以上にかせげる人達と、能力が無い人が給料の面では一緒で或るからだ。

こう考えて見ると、共産主義は能力の無い人にとって理想であると思う。だがまた私は、能力の低い人にとっては、共産主義は必ずしもよいものではない面があると考えている。人間というのは、自分の能力が低いと断定されてしまったらそれを向上させようと努力する。そのためには目標とするものが必要である。もし能力によって仕事が振り分けられた段階で、周囲に同レベルの人しかいなかったならば、能力を向上させようという気にもならず、やる気も無く仕事をする世界になってしまうと私は考える。

理想を考えるというのが、重要であるのだ。共産主義がいいとか、資本主義がいいとかいうのも理想を考えるということだ。あまりにも想像がつかない理想というのは現実にかなえることはほとんど無い。だけれども想像がつく、また前例があったり、前例が無くともなんとかすれば自分が理想になれると信じていたりすれば、それは現実になる可能性は十分にある。

だが問題がある。いかにして能力のある人や資本主義の理想を持っている人を共産主義の枠組みに収めることができるかということである。生まれた時点で、疑問をもたせることなく洗脳してしまうのか、あるいは牢獄に封じ込めてしまうか。歴史的な経緯をみてみると言論を封殺するために殺してしまうことが少なからず起きている。共産主義では、その中に属している人の考え方が一緒で無いと内部から滅びてしまう。対して資本主義では、その中に共産主義的な人がいようとも、資本主義というシステムに影響することはほとんど無く働く人は働くし、働かない人たちであってもお金さえあれば生きていくことができる。

許容できる大きさが違う分、やはり資本主義の方に適応できる人が多いはずだ。共産主義では当てはまることが出来る人が制限されてしまう。どちらにせよ理想のために犠牲はやはりでるのだろう。

 

 

2005.6.20

経済学科3年 17030144 八町俊太郎

過剰抑圧と過小抑圧とはどちらが望ましいのか。現代は過小抑圧の時代だといわれる。「いわれる」というのは、実際に現代に生きている者にとって、どんな水準に対して過小であるかを知ることはできなく、過剰抑圧というものを経験しようがないからだ。ただ、歴史的に見て過剰抑圧がどのようなものであったかは推測できるだろう。また、今が過小抑圧であるというのなら、そこに過剰抑圧が持ち込まれた場合、何がどのように変化するのだろうか。さらに、社会にとってどのような抑圧の形態・程度が望ましいのか検証したい。

過剰抑圧によって厳しく管理された状態が合理化された社会をつくり、それはたとえば日本の1960年代から80年代にかけての高度経済成長による富裕化を成し遂げた点を見れば、過剰抑圧は社会発展に貢献するものといえる。人間の生きる目的を、人間社会の高度化、生活水準の絶えざる向上といったものに置くのならば、過剰抑圧は望ましいといえよう。とはいえ、このような発展さえしていれば人間は満たされるものではない。自分の好きな時間に好きなことをしたいというのは自然の欲求であるからだ。抑圧が真に過剰であった場合、その欲求は単に余暇を求めるだけではなく、自由といった大きな次元のものへと向かい、抑圧を強いる対象への破壊的な衝動へと変化する。さらなる徹底的な管理をすることによってそのような自由への欲求を完全に排除しようとする傾向が高まることもありえるが、一度自由という目標物が明確に見えた人々にとっての自由への欲求を押さえつけるものは、もはや高度の発展ではなく暴力や弾圧とならざるをえないだろう。

対して、現代のような過小抑圧の社会に私たちは自由を求める欲求をもてないでいる場合が多く、そのことが無気力、人生に対しての無目的を生み出しているのかもしれない。では、自由を得ているのではないかとも思えるが、そう実感できるものは何もない。相変わらず社会は発展を志向しているし、金銭的に豊かになることはステータスであることに変わりはない。違うのは、そこに抑圧がないということだけである。個人的に何かを強いられるということがなく、何の職業に就くか、そもそも職業に就くのか、職業に就いた上でもいかに働くかなどということは任意で、しかし、社会全体としては向上を目指す、そういった時代に現代はあるのだと思う。

そこに過剰抑圧が持ち込まれることによって自由への欲求が喚起され、人生の目的が見出されることになる可能性は大いにあると思う。だが、そのようにして見出された目的は本意のものなのか。人によっては自分の価値観と異なることもあるだろう。今、私たちはおのおの自己の価値観にあった生きる目的を持つことができる権利を持っているのだ。確かに、たとえそれが自分の価値観と違う目的であったとしても、他の誰かから与えられることは非常に楽なものだ。しかし、それを許すことは権利を放棄することではないのか。もし、抑圧が自らの手で自らに課されたとすれば、それは自分の価値観にあった目的を持つ上で非常に意味のあることだとは思うが。

 

2005.6.22

経済学科3年 17030144 八町俊太郎

日本人はなぜ「公論」ができないのか。

他国民はみな思ったことを口に出す。どんなときでもどんなところでも、である。しかし、日本人にはそれができない。国際会議のような場においても日本人の意見が尊重されることはあまりない。もちろん発言はしていることと思う。発言に説得力がないのだろうか。また、大学の講義でさえ、学生はすすんで発言しようとしない。国際会議と違い発言内容に責任は問われなく、出席者は知った顔ばかりだというのになぜなのだろうか。

まず考えられることは、教育の不足である。義務教育でそのような積極的な発言をできるように訓練するプログラムは、皆無だ。そのような養成プログラムがなされる以前に、通常の授業でさえ積極的な発言はあまり歓迎されない。なぜなら、先生の発言は絶対的ではむかうことが許されなく、発言するだけ無駄といった傾向があるからだ。生徒の側にも問題があろう。発言をして目立った生徒に対して、他の生徒が「優等生」だの「先生に媚を売っている」だの揶揄をする。決して目立とうとしたわけではないのにもかかわらず、である。これら問題により、義務教育では目立たないことが奨励され、公の場で論議ができないまま成長していく。

だが、大人になってからでもそういった能力を発達することも可能ではないのか。仕事面において、最近はそうでもないが、以前は年功序列が当たり前になっていたため、キャリアがないという理由だけで発言の自由が与えられなかったり、自己主張できなかったこともある。このように意見が反映されないシステムのもとでは誰もあえて何かを言おうという気にはならないだろう。さらに、国家や行政へ何か自己の不平不満があったとしても、言ったところで何も変わりやしない、と始めからあきらめて言わないままでいてしまう。それは、日本人には自分たちの国家という認識がない、市民権を獲得した歴史がないからだと思われる。歴史的にみて、市民革命というものがないのである。

また前述の国際会議の場合では、経済的に大きな支援をしているから発言をさせろ、という態度で臨んでいて、実行に移そうという切実なアピールがないために、発言に影響力がなく見えるのではないだろうか。そしてそのアピールこそが義務教育で養成されるべき発言力、自己アピール力だと思われる。さらに、日本人は過去の過ちを一度も反省していない。第二次世界大戦である。そのとき日本人は決定的な過ちを犯した。しかし、それに対して対外的に謝罪をすることなく、今でものうのうとしている。そのような責任感のない日本人に重要な事柄を決められるわけがないのだ。

日本人全体が公論できないというのは確かに事実であるが、場面によってその理由はさまざまだ。まずは公論とは何かをしっかり認識した上で、公論が求められる社会作りを国の内部から行っていき、最終的には培われた能力を対外的に発揮できればよいと思う。

 

 

     経済学科 3年  井野克彦  17030005  5月16日

マルクス・エンゲルスのドイツイデオロギーを読み、イデオロギー概念の多様性、機能性を知った。その中で、支配階級と支配意識の機能を考えていきたい。そのために、まず支配的勢力に対する批判的視点において、イデオロギーを批判していく。そもそも支配階級の思想は、日本に限らず、どの時代・地域においても支配的な考えである。すなわち、社会上における階級制度は、社会の支配的な行動だけでなく、精神上における働きでもある。また、精神力の欠ける人々は支配という関係において、精神的な力が勝る人に服従する。それゆえ、階級制度が存在する社会では、上層部の思想が影響力を効かせ、人々を統制するだけでなく、支配者は思想の生産者として思想をも支配する。確かに、宗教・政治・戦争に見られるように、社会の秩序を安定化させるために支配的なイデオロギーは機能しているように思える。近年、教育の場に「日の丸・君が代」を徹底させる動きがあったが、これはまさに学校という支配構造を活用し、生徒、すなわち次期の社会を担う世代を支配的な体系の中へ、愛国という思想を用いて取り込もうとするものである。このような機能は、社会集団の持つ自己保存の要求に基づいているが、逆に維持する上でこの機能を脅かすものは強制的に排除する。日の丸・君が代を拒否した教員を処分したのはまさにそのことを意味する。歴史上機能してきた支配階級のこの機能は、現代でも体制的に利用されうるものといえる。また、実際の社会におけるイデオロギーの構造は、時代に応じ、支配に役立つように利用されることもある。例として、総理による靖国神社を挙げる。靖国参拝は、多国間、特に中国との関係に望ましくないと承知の上で行われている。

 次に、共同社会を踏まえて考えていきたい。ドイツイデオロギーにおいて、分業の廃止は共同社会の実現につながり、共同社会においてはじめて、各個人にとって、諸素質をあらゆる方向へ発展させる諸手段が存在するものであり、共同社会においてはじめて人格的自由が可能になるとある。では、なぜ共同社会においてはじめて人格的自由が可能になるのだろうか。共同社会の中では、人々が諸個人として社会に参加する。そのため、人格的自由は支配階級の諸関係の中で育成される。しかし、自由とは果たして支配の中で生まれうるものなのだろうか。自由とは、一見すると支配下を逃れたゆえに得るものに見える。自我を束縛する規制の存在が、自由という考えを構築し精神的行動へと掻き立てるためである。支配階級はまさに個人の思想、すなわち精神的活動を統率するために機能し、下部構造に位置する人々に影響力を与えている。ゆえに、支配階級の関係の中で人格の自由がもたらされるといえるのではないか。

 イデオロギーを批判し考察することで、イデオロギーがさまざまな概念の多様性・機能を持ち、観念を革新的な方向へと向かわせる反面、保守的・反動的な方向へも向かわせうることが分かる。

 

6月29日  17030005   井野克彦

講義項目として挙げられた中で、今回消費社会について論じていく。すべての人間はモノの使用価値のまえで平等であり、したがって使用価値に基づく欲求を満たすことは、社会の平等の実現である、という自然的で合目的な考え方は、イデオロギーであり、不平等の存在を隠蔽する。しかしあらゆる社会は、使用価値に関係なく、構造的過剰と構造的窮乏とを同時に持っている。社会の成長は、すべての人々の欲求を満たすという目的に向かって進むのではなく、必ず目的=豊かさから切り離されている。貧困や公害が取り除くことができないのは、社会が不完全だからではなく、社会の構造自体に貧困や公害存在しているからである。また、差別と特権が存在するのは、社会の構造としてそれが存在しているからである。もはや豊かな社会も貧しい社会存在しない。使用価値に基づく欲求は、満たされることも満たされないこともない。社会は使用価値と無関係に発展するのである。人々はモノの使用価値を消費するのではなく、自己の集団への帰属を示すため、あるいはより高い集団をめざして自己の集団から抜け出すために、モノを記号として使用する。重要なのは他人と比較することであり、モノの記号としての価値である。消費はそれ自体自立した不確定でマージナルセクターではなく、集団的で社会的な行動である。欲求は常に財の供給より超過している。だから社会システムは安定することなく、常に不均衡である。そして人々はこの記号としてのモノをモノそのものと取り違える。それが消費社会イデオロギーである。消費社会において人々は常に不均衡の状態にあるが、同時に消費社会イデオロギーによって、それを安定したシステムと感じるのである。未開社会においては、記号としてのモノが消費され、人々はそれを富と感じる。しかし消費社会においては、それが欠乏となる。また、自然に還れ、という疎外論的な主張は、自然そのものに還るのではなく、作られた自然に還ることとなる。記号としてのモノを否定し、モノそのものを消費すべきだという考え方は、すでにモノそのものが記号であるという事実を見落としている。社会個人主義を主張するが、その個人主義の主張が個人を殺すのである。消費社会のモノとは、モノの破壊のあとに作られたモノであり、消費社会の過程は、まず個人がばらばらに存在し、それが社会の制度にしたがうことでそれに適応していくという過程とは異なる。最初にあるのはシステムであり、そのあとに個人が出現する。したがって、消費はモノそのものの使用ではなく、あるいはばらばらに存在する個人を社会的に権威づけるための道具でもなく、絶えず発せられ絶えず受け取られ再生される記号のコード、つまり言語活動である。消費社会における競争は本物の競争ではなく、システムによって規定された遊び的な抽象的競争である。ゆえに、浪費を得るために生じる破壊はその中で支配的機能を果たすものの一つであると言える。

 

 

「環境思想」17030166 住田 将士

ソローの「わたしは、大部分のときを孤独ですごすのが健全なことであるということを知っている。最も善い人とでもいっしょにいるとやがて退屈になり散漫になる。わたしは独りでいることを愛する。」という発言に興味を引いた。現在から約200年前に生きた人間のこの発言に、私は少なからず共感を覚える。ここで唱えられている孤独は高尚で力強いイメージを私に与える。「向上心に貫かれた自発的な孤独」とでも言うべきものだ。こういった孤独のあり方は、「ニヒルで、ジメジメとして、対話能力が欠けていて」といった、良くありそうな、もう一つの孤独のイメージとは様相が異なっている。それらの違いは「孤高」と「孤独」といった言葉で区別が出来るかもしれない。孤独であるより孤高であるほうが望ましいであろう。しかし、日本の現状をみると、孤高の人よりも孤独の人のほうが多いように思われる。孤独な人をどのようにして孤高の人に変えることが出来るのだろうか。その課題克服について以下考えていきたい。

孤高と孤独の両者には先ほど見たような相違点もあるが、共通点もあると考えられる。それは「独りである」という両者に共通した構図から生まれるもので、ある対象に「批判的」な立場を取る、あるいは取っているように見えるという点だ。孤独、孤高のどちらの態度も、現状に対するアンチテーゼを発信しているといえるだろう。それは個人がそういった、アンチ思想、態度を明確に持たなくても、周囲にメッセージとして発信してしまうものである。なぜならどんなものでも受容者がいれば、それはメッセージとなりうるからである。日本のようにフィールド・アイデンティティが強く、探りあいをして、遠慮するコミュニケーションが発達した社会では、なおさらそのメッセージに対するアンテナの感度は強い。そういった状況では、「独りであること」は悪とみなされ、集団は排他的になることが多いだろう。「独り者」は集団の現状を脅かすものとして認知されてしまうからだ。そうすることで、集団の結束力が強まるという側面もあるだろう。こういった状況で一人になったものが、孤独になるか孤高になるかという違いは@自尊心の基盤を持つか持たないかということと、A最低限のコミュニケーション(あいさつなど)を集団構成員と図っているかどうか、ということによって決められるものと考えられる。Aについては少し説明を要するかもしれない。知っている人なのに最低限のコミュニケーションを取らないという状況は、よく「気まずさ」を生む。そして気まずさは、時にはその人に対する怒りにもなり、敵対関係につながるおそれもある。それは自分の保身の本能が働くためかもしれない。気まずい人のいる集団とすれ違うときなど、人は孤独を強く感じるのではないだろうか。あるいは気まずさを避けるために「引きこもり」になって、人は孤独になるのかもしれない。逆に、最低限のコミュニケーションを図っていれば、考えが合わない人にでも寛容になれるだろう。それは各々が自己実現を目指しやすいということでもあり、孤高な人間が増えるということにつながるだろう。処世術のようだが、Aは非常に大切だと考えられる。

人間には志向があるので、必ず何かに対して批判的にならざるを得ないという側面を考えると、すべての人間は状況によっては必ず独り(孤独、孤高)にならざるを得ない。ならば、私たちは、孤高になるべきだ。その理由は、@貴重な社会資源であるアンチテーゼは、孤高という存在になって初めて有効な力を発すると思うからであり、A集団の体質を改善できるからであり、B他者に対して寛容になれるからであり、C人に自立を促し、自己実現を図れるからである。そういった主体的な自己同士がお互いに啓発していくような生き方、それはまぎれもなく善い人生だろう。

また、今回のレポートを書くにあたって、「排他的人格であるペルソナをいかに豊かにするか」というハバーマスの回での問いに対するヒントが得られたようにも思う。Aの考えはそのまま、公共圏を豊かにすることにもつながるのではないかと考えた。

 

 

 片倉 綾香 17020058 6月6日 

 今日の講義の中に、ゴータ綱領では「労働はすべての富と文化の源泉である」とあり、マルクスは「自然も労働と同じ程度に諸使用価値の源泉である」とあった。マルクスはその理由として、あらゆる労働手段と労働対象との第一源泉である自然に対し、はじめから「人間が」所有者として関係を結び、それら労働手段と労働対象とを自分自身に属するものとして取り扱う場合にのみ、労働は諸使用価値の源泉となり、かくしてまた富の源泉ともなるから、といったことをあげていた。これは自然の希少性・有限性を考えていないのではないかと思った。人間はなぜ自然を所有できていると思ったのだろう。所有どころか自然に生かされている身であるはずなのに、現代では当たり前のことが1800年代では全くそういった認識がなかったようであった。そういった流れから現代に至る自然軽視が脈々と続き、自然破壊に繋がったのも頷けた。

 また、この時代の権力背景、土地貴族と労働者VS資本家階級の争いから、ラサールが論じたように、土地所有者には言及せずに労働者階級にのみ非難を加えていたが、そもそも労働者は農業従事者であり、土地所有者に迫害されてきたのにもかかわらずに、なぜ土地所有者と結託できたのだろうか。利害関係があったということしか分からないが、マルクスは全く完全なる平等を実現するために、このような結託は構わないにしろ、それらによって現実の問題が隠蔽されるのを嫌ったのであろう。しかし労働者に平等な権利を与えようとしたマルクスでさえ、平等をはっきり正しく認識できていなかったように思う。まず、全ての人間が生産した社会的生産物を全ての人間に平均的に分配することを平等とする、とあったが、今までの講義で何度も出てきたが、それが本当の意味での平等ではない、と思う。工場労働の単調作業一つとっても、全ての人間が同じだけの作業を出来るわけではない。といったことを考えても、純粋な労働収益を平均化して、それらをさまざまな社会が共同で発展するのに使われるとする分を差し引いて配分したとしても、差し引いたものもまた平等に使われるわけではないのではないか。私の考える平等とはやはり、自らの労働によって得られたものだけは確実に収入にでき、それらを自己の判断で自由に使える自由が望ましいと思う。となると、あきらかに社会主義、共産主義の原則に反してしまうのだが。

 平等の話に戻るが、講義の中にあった、P2にあるように労働者の天分や才能を無視したうえで、労働時間のみを労働結果とすると、やはり平等という名の不平等が生まれてしまう。しかしそれを解消するためにとる手段として、どういった基準で天分なり資質なりをはかれば不平等でなくなるのか。そんな方法は果たしてあるのか。平等とは元来個々を見つめた場合、非常に不平等なものである気がする。私はここの欲求を満たし、個々にとっての平等も追求していくのなら必ず必要になるのであると思う。

 

 片倉 綾香 17020058 7月4日

 ド・スタイガーの『環境保護主義の時代』にある「人間中心主義」と「生態中心主義」だが、私はどちらが正しいとも一概には言えないと思う。例えば、人類の初期においてとられていたのは「生態中心主義」である。しかしそれは「人間中心主義」という概念がまだ存在していなかったからだと思われる。現在のような科学技術が発達していて、自然の不思議さが大体において解明されてしまっていると、自然を敬う気持ちが必然的になくなってしまうのではないか。実際、近代文明が発達するの段階において、自然は神であった。人類の手の及ばない絶対的な存在であった。しかし、文明の発達により「畏れるべき」対象が無くなってしまった人類は、暴挙に出た。それが自然破壊である。「自然は神」という概念から「神は人類」という概念へ、おこがましくもすり替えてしまったに違いない。結局、自然破壊により絶滅の危機に陥るのは人類自身なのであるが。しかし、だからといって「人間中心主義」の提唱する合理性・客観性や経営的効率性・経済的効率性なしには、膨らみすぎ、繁栄し続けてきた人類はうまくやっていけないはずだ。生産や統制に支障をきたしてしまう。よって、「人間中心主義」と「生態中心主義」の両方にうまく折り合いをつけることが必要なのである。その折り合いが一番難しいのであろうが。

 また、ヘンリー・ソローの『ウォールデン森の生活』の中にある[労働と学生]のくだりに目を通して、自分の身に照らして愕然とした。そこには、「人間にとって必要ないかなる労働をも全面的に避けることによって、ほしくてたまらない閑暇と静けさをかち得た学生は、それのみが閑暇を有効なものにすることのできる経験を自分自身からあざむき奪うのであって、不名誉な無益な閑暇を手に入れるにすぎない」とあった。講義にバイトにと自分の時間が全く無い、閑暇が欲しい、と切望し、疲れを理由に講義を休むことがたまにあったが、そうして得た閑暇であるにも関わらず、罪悪感、虚無感、脱力感、といったようにプラスの効用は得られなかった。折角の休みなのに・・と思ったが、これはここで述べている「人間にとっていかなる労働(講義)をも全面的に避ける」ことでほしくてたまらない閑暇と静けさ(休み)」を得、しかしそれは自らをあざむいた結果得たものであり、不名誉かつ無益であると自らも自覚しているためにマイナスの効用しか生まれなかったいのであろう。やはり普段自覚していなくても、私達は常に義務感や焦燥感を抱えて生きているのかもしれない。それは幼い頃から親や周りの人間に「何か」を「する」ことを自然に促され、それが自然だという認識を持ってきたからであると思う。自主性とは別に、そういったいわゆる「いい子」でいることが正しいという認識は必ずあると思う。その根幹には、以前の講義でもあったような、倫理観が大人にも子供にもはたらいているのであろう。でなければ、あらゆる罪悪感も生まれないはずなのである。

 

 

経済学科4年 17010016  久嶋謙一

Bマルクス『経済学・哲学草稿』(516

 計画性がない、偶発性への依存、排他性、敵対性、内的世界の喪失、負の価値の創造‥‥、以上に挙げたものは、若き日のマルクスが『経済学・哲学草稿』で、市場経済に対して浴びせかけた痛烈であり、また正確な批判である。確かに、市場経済はそれぞれの個人は所有欲から身勝手な行動をとり、排他的、敵対的に振る舞い、それぞれ望ましい結果を得られるか否かは偶発性に頼っており、社会や市場全体としての計画性がないため、貧富の差は広がり、失業が生まれたりもする。このような中で自らの仕事と創造物の間に、市場経済を原因とする疎外感が生まれ、彼らの内的世界が失われていくこともある。マルクスはその過程を、工場労働者をはじめ、様々な立場から見て、いかに市場経済が当時の国民を苦しめているか、という事を理論的に、鋭く記している。市場経済の"自由"競争という制度から、そこに生きる個々人たちが自己矛盾と自己疎外と"不自由"に陥ってゆくというのは私たちが認めながらも、放っておいた真実ではないだろうか。

この社会では、政治的に発言権があるのは、いつでも経済的に豊かな者たちである。彼らは、その地位に立つために排他的、敵対的であることを良しとし、またそうある必要があった者たちである。そんな彼らが、マルクスの唱えるような共産主義思想を全面的に支持することは(一部、自らに都合の良い部分は指示しても)難しいのではないか。たとえかつては貧困にあえぎ、共産主義思想を抱いていた政治家と言えども、実際政治家という職業に就くと、国民たちの苦しみを優先して考えられなくなってしまう場合が多いだろうからである。これは、前回の授業の『ドイツ・イデオロギー』でマルクスが述べた、下部構造としての物的生産関係が思想や意識など上部構造を規定する、という箇所に相当するだろう。よって、市場経済により、人々が苦しめられていても、社会はそう簡単に共産主義的には変れないのである。となれば、革命が必要である。実際に現在、社会主義、共産主義を採用している国々のほとんどは革命によってそうなったのであり、国の上層部は最後まで抵抗していたはずだ。上層部と国民の社会に対する意識の違い、というのも特筆すべき市場経済社会の欠点と言えよう。

加えて『経済学・哲学草稿』では、マルクスの理想の社会、更には理想の人間像といったものも読み取れる。それは、自由肉体的、自由意志的、他人に従属しない、労働それ自体の喜び、全能力の開花、実践的諸感覚についてなど、およそ共産主義思想のイメージとはかけ離れた、ロマンティックとも言えるものであった。私の認識が甘かったということであろうが、共産主義思想というものは、自由や文化的なものとはほとんど無縁なもので、国民の安定した生活を第一義に考え、計画経済を実行し、そのために国民の人間的な魅力や自由を奪ってしまうようなものとでも考えていたのである。しかしマルクスの考えた理想、これは今考えるとかなり非現実的である(というのも、現在社会主義、共産主義を採用している国々の、少なくとも一部はマルクスの理想とはかけ離れて見えるのだ)が、当時はこの思想の持つ影響力というのは凄まじかったのではないか。なにしろ彼の理想の人間像は魅力的であるし、その理想を現実のものとするために、当時の市場経済に対する的確な批判と、それに替わる社会・経済システムを、具体的とは言わないまでも提示したためである。考えてゆくと、この『経済学・哲学草稿』は上で述べた、革命を起こすのに充分な理由を後の世代に与えた重要な文献ではないだろうか。  

 

Eウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(6/8)

資本主義が、プロテスタンティズムから生まれた、と聞いてもなかなか合点がいかないことが多い。たとえば私が最も疑問を感じたのは、プロテスタンティズムに限ることではないが、キリスト教の基本的な教えとして「隣人愛」の精神があるということである。隣人(見知らぬ人)を愛し敬うように行動する、つまり他人を悲しませたり、おとしめるような事をすすんでしてはいけないということである、と私は理解し、特別信心がある訳ではないが私自身もそのように生きるのが理想的である、と思いなるべくそのように振舞ってきたつもりである。しかし、この資本主義の世界というのは、隣人愛の精神を貫くには少々難しい世界である。それは、自己の利益・効用を最大化するためには、法に触れない程度に(道徳的にはともかく)他人から何かを奪ったり他人を出し抜いても良い、という世界だからである。この資本主義を生んだのが、隣人愛の精神を持つキリスト教の一派だということは矛盾しないだろうか。少なくとも、宗教改革時の個々人の信者たちの間に疑問は生まれなかったのだろうか。そして、後に信仰を失って資本主義社会に残り、暮らしている私たちは、どのような存在なのだろうか。

プロテスタンティズムが生まれた経緯としては、既存のカトリックに対する不満ということが主流であるが、ウェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、その不満の中には当時のカトリック信仰にあった、ある種の甘さに対するものがあったのだ、と述べている。当時の教会による支配にかわって、家庭生活や公的生活の全般にわたる規律を要求し、その要求に対応した考えを持つプロテスタントへと、人々が傾倒して行ったのだ、というのである。そして、この生活の規律という概念と、カルヴィニズムのうちの天職のまっとうという概念が心的起動力となって、経済的合理化に基づく資本主義の精神が生まれたのだという。

確かに上の説明は納得がいく。しかし、この時点では人々は天職のまっとうと生活の規律化による経済的合理化と、資本主義に制度として含まれる反「隣人愛」に気が付かなかったのではないだろうか。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には、カルヴィニズムからは隣人愛の精神は、「自然法によって与えられた職業という任務の遂行のうちに現れるのであり、その際、特有な事象的・非人格的な性格を、つまり社会的秩序の合理的構成に役立つものという性格を帯びるようになった」と記されているが、これはこじつけのように見える。宗教改革が、当時の教会に対する反発として必要だったのは理解できる、更にカルヴィニズムがその際有効だったのも理解できるが、それまでのキリストの教えまで捻じ曲げた解釈を施さなければならないほどだったのだろうか。この資本主義が生まれるという時点で、何かしらの倫理的・法的ストッパーを用意して、本当にキリストが説いた「隣人愛」を守るべきだったのではないか。資本主義が発展してゆく中で、やはり信者たちの心の中に葛藤があったに違いない。

とはいえ、資本主義が根付き、この世界で生きることになれてしまった私たちは、その葛藤さえもなく、それを当たり前のものとして生きている。しかし、それでも少しでも上に述べたようなことを意識しながら生きるだけでも、何も考えず資本主義に溺れ流されているだけより、幾分かましなのではないかと、私は思う。

 

Iヴェブレン「有閑階級の理論」(6/22)

今回は、ヴェブレンの著「有閑階級の理論――制度の進化に関する経済学的研究」に沿って学んだわけだが、この理論について私はほとんど反対意見を持てない。とてもよく出来た理論であり、現在の日本でもほとんど修正することなく使える上に、これからも事あるごとにこの理論は持ち出されるのであろう。私に出来ることといえば、このヴェブレンの「有閑階級の理論」の安定性とその詳細を賛辞することと、現代日本を舞台に考えた際に、補足的なことを付け加えることくらいである。以下は後者に徹することにする。

まず、現代日本での有閑階級として主たる者は、有閑マダム、文化人・知識人、高所得者、地主、フリーターなどである、と講義の中で説明されていたが、私がここに付け加えたいのは、NEET・引きこもりである。彼らは親の所得(必ずしも高額所得者とは限らない)を頼って、代行的閑暇を半ば強引に楽しんでいる。この点では、有閑マダムと変らないかもしれないが、彼らの代行的閑暇は、決して有閑マダムのそれのように閑暇を与えている者(主に忙しい働き手)に対する世間の評価を高めたりはしない。むしろ、息子・娘がNEETや引きこもりであるということは隠したい気持ちであるだろうし、世間に知れた場合は、(彼らにその生活を続けさせるだけの支払能力があるにもかかわらず)評価が下がることさえあるだろう。彼らの親にとっては、彼らは可愛い息子・娘であると同時に、ともすれば邪魔とも言える存在なのである。

では彼ら、NEETや引きこもりの存在意義とはなんだろう。ここで彼らの特徴的な行動を見てみよう。まず、NEETはただ暮らせるだけの余裕が親に有ったために、自らの嗜好を最低限満たすだけの消費を行い、日々をすごす者が多いと聞く。更には何か自分が本当にやりたいことを探している者もいるという。そして、引きこもりに関しては主にインターネット、テレビ、雑誌などのメディアを通じてのみコミュニケーションをするのだという。消費は最小限で済むだろう。

上のように、彼らは有閑マダムのように時間を浪費するが、しかし顕示的消費をする者は多くない。それは単に、彼ら(彼らの両親に)に経済的余裕がない場合が多いためであり、個人的に使える金額に関しては無一文に近い者もいるだろう。この点では、ヴェブレンの言う「二次的有閑階級」に近い。つまり、彼らには彼らの尊厳や自由がその生活にあって、それは通常の有閑階級(有閑マダム、知識人・文化人、高額所得者など)のそれとは異なるということである。現代ではこの、NEETや引きこもりが、通常の有閑階級が創ったものとは違う文化を形成している、といっても良いだろう。それは今まで、「フリーター文化」と呼ばれてきた物に近いが、彼らはフリーターと違い、仕事を全くしないのでより純文化的なもの(それはもちろん保守的な有閑階級には全く文化的には見えないのであろうが)が期待される、という考えもある。

近年の日本の文化は、有閑階級が守ってきた古典的なものと、フリーターや女子高生といった若者が押し上げてきた革新的な文化(とはいえないような物も多いかもしれないが、)の双方向からの流れを汲んだ混沌とした文化であった。これから、その下からの流れを創るのは、また創りつつあるのは、NEETや引きこもりといった「二次的有閑階級」である、と言える。

 

 

マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』(新日本出版社)

2005.5.11.

17030105 大角 菜穂

 分業の発生によって、「各人はある特定の活動範囲だけにとどまるように強いられ、そこから抜け出すことができなくなる」とある。したがって分業の廃止は、各個人の人格的自由が可能となるとされている。しかしどのように幼稚なものであれ生産された労働要具が存在するという事実は、人間の労働過程がすでにいくらかでも発展を開始していることを意味し、さらに生産諸力の発展に伴って生ずるそうした生産された労働要具の種類と数量の増大は、またおのずから「分業」の形成および拡大として現われるほかはない。すなわち、労働の生産性の増大は分業の進展として現われ、結果そうした分業労働の個々の担い手たちの掌中に、おのずから生産された労働要具の蓄積を呼び起こしていくことになる。

 確かに分業の発生のために、個人の活動は自由意志的でなく支配階級や支配意識も生まれるであろう。しかしだからといって共産主義の理想的な生活像のように、社会の生産全般規制の下で諸個人がしたいと思うことを思いのままにし、しかも決して職を定めなくていいという状況は、今日の人間社会には成り立たないと考える。

 現代の日本は資本主義社会である。基本的に個人の私的利益追求が自由に行われている状態である。しかし職について「職業選択の自由」はあるものの実際には、昔から家で相続されている職業からはなかなか替えることができないというのがある。その例としては、農業や漁業などの第一次産業がある。その生産物は主として生活必需品に属しているからであろう。日本にあるそれら第一次産業従事者がいなくなってしまったら、どうなってしまうだろうか。生活必需品の生産がなくなり、それらの物価は急に跳ね上がる。日本国内のみでそれが行われると、他国の輸入に一切を頼ることになり食糧自給率は更に下がり、貿易依存度が高くなる。世界で行われると現段階の人間の生活は成り立たなくなる。そして何より資本主義社会においては、階級格差は更に広がるであろう。各個人が自給自足すればいいという話かもしれない。しかしそれは可能であろうか。現代社会では第三次産業が幅を利かせており今から自給自足の生活に戻ることは不可能であろう。経済発展に支障も出る。おそらく今までの第一次産業からの発展と同じことを繰り返すだけなのではなかろうか。また、これが例えば生活必需品の生産に関わらない職業従事者がいなくなる場合であったら、ひとまず生活への支障はないだろう。教師が作家になろうとも金融業者になろうとも、最低限の人間生活に問題は発生してこない。共同社会に影響が出てくるかどうかは生活必需品の生産に関わっているかどうかが重要な点である。ここで注意したいのは職業選択の自由はある程度機能しているのも事実であることである。農家は一生農家でなくても、教師も一生教師でなくてもいつでも転職できるようにはなっているからである。

 分業の廃止は、各個人の人格的自由獲得に繋がる。しかし、現実問題として不可能な面があることが事実であり、真の共同社会性においては、諸個人は彼らの連帯のうちで、連帯を通して同時に彼らの自由を獲得するとあるが、むしろ分業があるからこそ、人間は共同社会を形成することができその下で私的利益追求が図れ、今日の経済発展を遂げることができたといえるのではないだろうか。分業は共同社会の成立のために、共同社会のスムーズな運営のために、共同社会の存続のために必要であると私は考える。

 

マルクス『ゴーダ網領批判』〔18751975

2005.6.6.提出

17030105  大角 菜穂

 今回の講義でまず気にかかったことは、形式的平等と実質的平等についてのことである。ここでは共産主義社会の権利で出てきた労働証明書について取り上げたいと思う。

 労働証明書は、個々の生産者が労働量を記載した証書を社会から給付され、その証書をもって消費手段と交換するというものであるが、これはただ時間の平等、内容はどうあれ時間のみで量られ、いたって形式的、一面的なものである。しかし、これは実質的平等を完璧に無視している。個人の労働量を時間のみで判断するというのは不平等を生み出している。人々が一つの社会で生きていく中で、皆が皆同じ仕事をしているわけではなく、むしろ同じ仕事をしていては社会は成り立たず、分業となっているのが普通であると考える。時間のみの尺度というのは、個人の労働内容が反映されず、例えば決められた労働時間の間あまり労働せず怠けて過ごす人と一生懸命労働する人、あるいは楽な仕事の人と人々が好まない仕事をしている人など、時間以外の面で全く対照的ともいえる人々が同じ量の労働量と見なされてしまう。そうすると、一社会の分業は成立しなくなってしまうのではないだろうか。よっぽど労働が好きでない限り、その仕事を好きでない限り誰もが楽な労働を選ぶ、自分の好きなことをするというのが人間の欲求であろう。その内容がどうであれ労働時間さえ証明できれば皆が同じ給料をもらえるということであったら、皆がどんどん怠けたり楽な仕事をしたりという現象が起こり、労働内容の多種多様化は損なわれその社会の生産量は一気に下落すると思われる。分業が成り立たないということは、社会の経済循環、経済循環のみならずその社会の成立さえも上手くいかなくなってしまうのだ。

 ここで、形式的平等も実質的平等も兼ね備えた労働の量り方を考えたのだが、各個人の労働量をその生産量で量るというのはどうであろうか。生産量で量ることによって、労働内容の違いによる不平等はなくなり、労働時間の違いも考慮範囲に入る。ただ多くの問題が発生してしまうのも事実である。まず、生産量をどのような基準で量るかということである。ただの歩合制というのではなく、社会でしっかりした基準を設定し人々がそれを納得、受け入れることが前提となる。更にそこで人気のある労働と不人気の労働をどのように価値付けるか、それによって労働の、分業の多種多様化が大きく左右されるであろう。生産の価値基準設定が何よりの課題といえる。

 人々の欲求と労働をどう繋ぎ合わせるか、労働をどう位置付けるかが一番の課題であり難点であろう。生活のために必要不可欠なもの、しかしその根本としては社会成立のために必要不可欠なものともいえる。現代社会成立において労働はなくてはならないものであり、現代人にとっても自分自身はもちろん、他人の労働がなくてはきっと生活することが困難となる。すなわちこの課題には更に、社会の経済利益も絡んでくるのである。労働は決してなくなるものではなく、人間が生きていく限りこの問題は永遠に社会への人々への課題の一つとなるだろう。

 

 

6月22日提出経済思想レポート

17030109 川畑郁江

ハバーマス「公共性の構造転換」[1962-1990=1994]未来社

 公共とは定義自体は単純かもしれないが、実は難しい問題である。公の場で市民一人一人が気持ちよく生活できる、というのはいつまでたっても不可能な気がする。そして、授業でも話題になっていたが、少しでも自分が気持ちよく生きていくために「議論する能力」が大切なのは言うまでもない。議論の積み重ねのうえに公論というものが出来上がっていくからだ。私自身、自分がなぜ議論が苦手なのかを考えてみると、シャイだという性格の他に、議論の議題についての知識が乏しいということがあげられる。議論もそれだけを目的とするならばただのおしゃべりになる。バックグラウンドの知識を深めるという作業も大切で、その上で中身の濃い議論が実現する。そして公的な場で自分の意見を言うのは大変なことだがそれを誰でも比較的簡単に実現することのできる「場所」がある。ネットで大盛り上がりのブログだ。

 最近のブログ市場の発展には驚く。私の周囲の人間も皆こぞって自分の身辺雑記をブログで公開している。私ははじめ、どうしてわざわざプライバシーを公的な場で紹介するのかまったく分からなかった。プライバシー保護がこんなに叫ばれている中で、人々は「自分の意見を聞いてくれ」「自分の気持ちをわかってくれ」と世間に訴えている。しかし最近になって気づいたことは、ブログは普段なかなか表現することのできない自分の内面を思う存分表すことのできる格好の場所だということだ。私たちは皆、属している社会と密接に関わり合って生きているが、属する集団や地域の中で、常に自分の正しいと思うことが実行できるわけではない。他人に言いたいことや、自分が蓄積した知識や知恵を直接その場にいる周囲の人に伝えるだけでは勿体無い。実際、調べたい問題をネットで検索するとたくさんの人が自分のブログで意見し、たくさんの人がそれについてコメントしている。まったく知らない人の意見に新たな発見をすることがあるし、その知識をきっかけに新しい分野への興味が沸くこともある。たとえ顔を知らなくてもあらゆる人とのコミュニケーションがインターネットによって可能になっている現在、ブログという簡易HPは初心者でも簡単に作ることのできる、いわば古代ギリシアの「アゴラ」にあたるということができる。そしてこのブログが大人気である背景には、相手の目を見て大きな声で話すことの出来なくなってきている現代人の特質があるのではないか。公共性が画一化につながり、多数派の意見がまかり通る世の中である。私自身も、協調性を重視するあまり自分の意見を押し通すことは稀であり、口論になってでも貫きたい信念というものが自分の中に存在しないと感じている。そんな時にもしブログがあったら、人に言えない小さな心の動きも自由に書き留めるだろう。自己実現を実現できない日常生活の中で、ブログは救世主だと感じた。というわけで近々自分のブログを持つことにした。

 

6/29提出経済思想レポート

17030109 川畑郁江

ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」[1970=1979]紀伊国屋書店

 「人間は、与えられたものによって受動的に生きていると自尊心の基盤が揺らぐ」という先生の言葉に納得するとともに、まさに今の自分のことを言われていると感じ、打ちのめされた。私に限らず、人間は受動的に生きるという楽だが魅力のない生き方をしているという罪悪感をなんとか払拭したいと思っている。そのための手段としての消費が行われているのは事実である。他人とは違う自分を求めて、差異化のための消費、アイデンティティ確立のための消費を私たちは日々行っている。他人と感性が少し違うこと、個性的であることに美意識を持ち、その個性に対する他人の評価に自己満足を得るために、私たちはどんどんお金を使い、あるいは逆に、そのような表面的で、他人に見せるための消費はくだらないと言って、節約に励むこともある。どちらも小さな自己満足のためである。

 しかし、そのような他人との差異化を求めて消費をする傍ら、私たち消費者が生産システムの戦略に踊らされているのも事実だ。今年は蛇柄が流行すると雑誌で言われれば、若い女性は皆こぞって蛇柄ファッションに身を包む。ここに矛盾を感じる。希少性に価値を見出しているはずの現代の人間が、流行に敏感になり、周りの人々と同じであることを厭わないのは、心のどこかで「周りと同じであれば安心」という大衆性が働いていることの表れである。蛇柄をかわいいと思う人たちの中で、それを身にまとっている自分を評価してもらえればいいということだ。他人に評価してもらえる安易で簡単な手段が、流行に飛び乗ることなのである。そしてこれこそまさに、受動的に生きていることに他ならない。

 受動性を免罪する目的で行われ、発展してきた消費社会の中で、大衆的商品が次々に作り出される。そしてそれを一生懸命消費している私たちは結局、受動的なままである。いくら商品を自分で主体的に選択しているという感覚を持ったとしても、その感覚さえ消費システムの一部であるという事実を考えると、人生の悲哀を感じてしまう。消費行動がアイデンティティ確立のために役立つのは、私たちがアイデンティティを意識し始めるほんの最初の時期のみで、その後は自分なりの方法で確立のために邁進していくこととなろう。それを見出せないで、ステイタスのために流行に振り回されるのは、単なる浪費であり、豊かさではないと感じる。精神的豊かさを求めて私たちは生きている。しかし人間は消費しなければ生きていけないというのも事実だ。消費行動に自己実現の価値を見出すか、それとは違う何かに見出すかは個人の自由であり、どんな方法をとるにしても、その行為自体が主体的であるのならば、魅力ある人生だと確信とともに言えると思う。

 

 

経営学科 3年 17030083  名和 彩乃           提出日 6/6

マルクス『ゴータ綱領批判』

 マルクスのゴータ綱領批判は、まず労働論に現れる。ゴータ綱領では「労働はすべての富とすべての文化の源泉である。」としているのに対し、マルクスはこれを全面的に否定している。労働だけでなく、自然も源泉になるとし、労働手段と労働対象が自分自身に属す時にのみ、労働は諸使用価値の源泉・富の源泉になると答えている。前回の講義内容にもあったように、資本主義社会では労働は個人に属さないために、内的世界が貧しくなっていくとされていたが、反対に共産主義社会では、労働は労働者に属していると述べられていた。今回のゴータ綱領批判の部分を読むことで、マルクスはやはり、労働が労働者に属すからこそ富が生まれるという考えであることを改めて感じた。ゴータ綱領でラサールは土地所有者には目をつぶり、資本家階級にだけ攻撃したが、マルクスは土地所有者・資本家階級の両者を否定し、労働者の自治を進める考えになっている。労働者の自治というところで、労働証書給付がでてくる。労働時間を基準にして、平等にするものだ。これの問題点は、どんな労働でも時間で評価されるということだ。すごくつらい労働、専門的な労働、誰にでもできる労働、楽な労働などあらゆる労働が、8時間働いたとしても同じ評価しか得ることができない。共産主義社会では、あらゆる生産活動は社会全体で共有され、平等に分配されるのだ。資本主義社会では、このような平等ではなく、働いた分だけ評価される、能力のあるものが評価されるという個人にとっての平等な評価がある。時間での評価ではなく、その労働の内容が重要になってくるので、労働者は努力をするし、その効果で経済も発展してくる。資本主義社会の悪い面としては先にも述べたが、労働は労働者に属することなく、手段と目的が分かれ、内的世界が貧しくなっていくものなのだ。今回の内容では、共産主義社会のより高次の段階についても述べられており、この部分に私は興味を持った。より高次の共産主義社会では、労働が生活の手段であるだけでなく、生活にとって真っ先に必要なこととなり、諸個人の全面的な発展により生産能力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から湧き出るようになった後、各人からはその能力に応じて、各人にはその必要に応じて、と言うことができるとあった。資本主義の社会であれば、生活するためには労働が真っ先に必要になってしまい、時には苦痛を伴うが、共産主義社会では全能力の開花などによって、個人がそれぞれの能力を活かせる分野で活躍し、労働していくことになり、自分が社会の富に貢献していると感じることで、労働が真っ先に必要であると言えると思う。

 また、授業の最後に議論があった内容の、親からの受け継ぎなどを一度リセットするということについての私の意見は、親に関係なくあらゆる人が平等にチャンスを与えられるという面では良い考えだと思った。しかし、親の受け継ぎがあろうとなかろうと、平等にチャンスが与えられようとなかろうと、その本人がそれを活かそうとしなければ、結果は変わってこないから、親の受け継ぎなどをリセットすることはあまり意味がないのではと感じた。

 今回の内容を通じて、マルクス以外にも様々な主義がありそれぞれに色々な思想があることがわかった。それらを見ていくことで、自分も独自の考えを持てるように考えを深めたいと思った。

 

経営学科 3年 17030083   名和 彩乃        提出日 6/13

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

 プロテスタンティズムを考える上で、私たちにとって身近な受験勉強から大学へと進学するということに当てはめていくことが出来ることに驚いた。私はプロテスタンティズムやカルヴァン派などについてほとんど知識が無かったが、今回の授業で自分の身近な例にたとえて考えることができて理解が深まった。なかでも、一番共感を持てた部分についてこれから述べていきたいと思う。

 カルヴァン主義において重要となる問題である確信を得る方法、内心の苦悶を処理する方法として「誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける…」と述べられていた。これはつまり、不安を消して、やり通せば必ずできる、最後までたどり着くというように自分自身を信じることだ。私自身も受験勉強の時は、勉強以外のやりたいことを我慢し、ほとんど勉強のために時間を費やし、やれば必ず合格する、最後までたどり着いたら好きなことができると思い、目標達成後の自分を想像しながら自分のやっていることを信じて最後までやり通した。確信を得るためにはこのようにある程度の思いこみが必要だと思う。そういう意味ではカルヴァン派はポジティブな考え方を持つものだと思う。また、もう一つの方法として「絶え間ない職業労働をきびしく教え込むこと。職業労働によってのみ宗教上の疑惑は追放され、救いの確信が得られるとする。」とある。これは熟練した労働者を作り上げ、職業を全うするという天職観念に基づく。ここで言う「天職」とはどんな職業であっても職業を全うすることであるが、私は天職とは自分に適した職業のことだと思っていたので、今回の講義で初めてこの天職観念を知った。どんな職業であっても、ということは、自分がやりたくない職業、適していない職業、社会的に認められていない職業などのネガティブな面をもつものであっても、それを全うし最後まで自分を信じてやり抜くことに意味がある。前の講義の内容と重複するが、仕事が人々にとって一番必要なものであればあるほど、禁欲的になり、勤勉にならざるを得ないのだと思う。労働などに対しネガティブな面を持っていても、天職観念によって良くも悪くも各人に生の意味を生み出し、全体としてポジティブな人生観になるということもあり得ると感じた。また、プロテスタンティズムの禁欲それ自体はなんらの新しいものももたらさなかったが、労働を天職とみなすことで、ついには唯一の手段と考えることから生じる、あの心理的起動力を創造したのだ、という記述があった。これについても、すでに述べたように人々にとって労働が生活をする上での唯一の手段であり、職業を全うしなければいけない、それに伴って禁欲的な生活をしなければならない、というように各人の生活に方向性を与え、意味付けることで、心理的起動力は創造されていると言えると思う。以上のような事柄について私自身はどうかと考えてみると、どんなに興味のない授業であっても、自分の選んだ道であり、学費を払ってもらっている立場の学生なので、4年間学業に従事しなければならず、それ以外の遊びやバイトなどがメインになるようなことがあってはいけない。そのためには、ある程度禁欲的な生活をし、学業に専念することが私自身の生活を方向付け、意味付ける。納得する部分は多く、このような観念で過ごすことが望ましいと思うが、私にとって現実的ではないと感じた。